昭和46年に茨木に生まれ高度経済成長に少年期を過ごしてきました。バブル崩壊と失われた20年が青年期でした。いわゆる第二次ベビーブーム世代です。

世界史的激動期にある令和の現在。このページでは同時代史と個人史を対比しながらプロフィールとして自分の人生年表を記してみたいと思います。何に情熱を傾けてきたかお伝えできればと思います。

幼少期

小学校低学年まで

昭和46年4月11日この世に生まれました。ネットで調べると日曜日だとあります。当然生まれた時の記憶はありません。確か聞くところによると茨木市役所近くの産婦人科で生まれたと思います。父20歳、母23歳の第一子長男でした。この時もう祖父も祖母も他界していたのでいわゆる爺ちゃん婆ちゃんを知りらずに育ちました。同級生などが爺ちゃんばあちゃんの話をするのを聞くと、何か寂しい気持ちになった記憶があります。

赤子
赤ちゃん

本家は茨木市の東福井にあり、父親は末っ子だから本家を出て近くの宿久庄のアパートで新婚生活をしていたようです。そのような家庭環境の中でこの世に生を受けました。今考えるとありがたいとしか言いようがありません。両親は子供が熱が出たらすぐに病院に連れて行ったと言っていました。若い両親にとって初めての子供を育てるのに苦労があったと後々聞くことになりました。

東福井

両親はいつしか宿久庄を出て本家の離れに住んだり、3歳の頃は春日の借家に住んだりしていたそうです。春日の借家の前の道が、舗装もされていない砂利道だったような記憶だけが残っています。家の前の道路のことだけなんとなく覚えているのが不思議です。

幼稚園は大谷幼稚園に通っていました。仏教系の幼稚園で「ほとけさま」の歌を歌った記憶があります。大きな本堂で昼寝をしました。薄暗い大空間で、ひんやりとした空気を感じながら眠りについた感覚が今でも身体に残っています。

大谷幼稚園 園児

幼少期最も長い間生活することになるのは中津町でした。何歳の時に移り住んだか覚えていないけど、小学校4年まで生活していました。いわゆる文化住宅でした。

文化住宅から徒歩2分ほどのところにダイエーがありました。文化住宅の裏には畑が広がっていました。畑の向こう側は水田で後々ここにジャスコが進出してきます。

裏の畑には四季折々の作物が植えられていました。春はキャベツについた青虫を虫かごに入れて育てました。蛹になってモンシロチョウになるのを見て不思議に思っていました。下の写真は、中津町の文化住宅の裏の畑です。なぜか畳が放置されていて、でんぐり返りをしています。後ろに、妹がおり当時買っていたシャム猫を触っています。何せ昭和のこの頃は、まちの道路も舗装されていないところもあり、土や草を感じる環境がまだ身近に残っていたように思います。現在写真の場所は全てアスファルトになりジャスコの駐輪場となっています。

中津町 裏の畑

秋にはトンボが沢山飛んでいました。畑を囲う有志鉄線に止まっているトンボの目を人差し指でくるくる回して捕まえて遊んでました。裏庭には枇杷(びわ)やイチジクの木も生えていたので時期が来ると取って食べていました。今では想像もできないが、昭和50年中頃には阪急茨木市駅徒歩圏内に沢山の田畑が残っていて、昆虫も身近に感じることができました。人生の記憶を意識できる時期に高度成長期を経験しました。右上がりの経済と第二次ベビーブームという子供が多い世代の同時代史は、今となって希少な体験になっていると実感しております。国民総中流という言葉が語られるほど、ある意味では未来に希望しか見えない幸せな時代だったと思います。

戦後復興から経済的豊かさを追い求めた日本の国土で少年期を過ごしたことは、経済的発展の裏側で身近な自然や風景が劇的に変化してきた事実を体感できたありがたい世代かもしれません。私自身がこれからの都市を考えるための原風景となる貴重な記憶です。

中学校卒業まで

小学校5年から太田小学校に通いました。この頃から中三まではサッカー一色の生活でした。基本活発な子供だったので、結果的に児童会長や生徒会長をしていました。何も考えず身体を動かしている、悩みのない少年時代でした。(あまりに何も考えずに成長したので、青年期にアイデンティティと向き合うことになるのですが)

サッカー少年

小学校6年生の先生方は、時代の雰囲気もありが平和教育が熱心でした。小学校の修学旅行は当然広島だったし、平和教育の一環として原爆で亡くなった10万人を実感させるために、体育館の床に広げた模造紙に10万人の人型を皆で書く作業をした思い出があります。(この頃の強い平和教育は平和の価値を半ば強制的に子供達に植え付けていたと思います。戦争が終わって40年近く経った頃の義務教育の現場は、このような平和教育の傾向が強かったと思います。私にとっては、この平和教育の経験が大学時代の保守思想へと反動するきっかけになったことを思うと、教育の効果というのは目的通りに実現するものではないと実感しています。)

その頃の日本経済は順調だったと思います。昭和60年前後の頃なので、子供ながらに好景気が続いている感覚を持っていました、中曽根首相とレーガン大統領が山荘で螺貝吹いて仲良くしている報道をみた記憶があります。また一般の国民も株式投資をしている話を子供ながらにきくこともあり、NTT株の上昇など社会現象となっていました。国民全体が経済的豊かさに浮かれていた雰囲気があり社会に活気があったと子供ながらに受け止めていました。

青年期

高校時代

高校は府立三島高校へ通うことになりました。茨木市から高槻市にある府立高校に自転車で通っていました。高校ではサッカーではなくハンドボール部に入部しました。それなりに熱中していましたが、思うところあって一年の夏で退部しました。この頃、生徒会などのリーダー的役割を敬遠していました。冷めたスタンスがかっこいいと考える年頃でした。とはいえ内なるエネルギーを持て余しながら、思春期特有の自我の確立に苦しんでいたと思います。

高1 ハンドボール

高2の時、理科選択で物理を選びました。その時学んだ先生は大人しい先生で、生徒に人気がありませんでしたが、私にとって掛け替えのない先生になりました。ニュートン力学の運動方程式を黒板に書かれた先生は、運動方程式を「美しい」と表現されました。すべての自然界の力学的現象を一つの公式で表しているという事実に驚愕し、その美しさに驚嘆しました。毎回、授業前には黒板を乾拭きして、1年間最前列で授業を受け続けました。「少年老い易く学成り難し」という先生の言葉も忘れられません。この時、生まれて初めて学ぶ楽しさを教えてもらえたと思います。テストの点数はよくなかったけど、探究心を持って学び考える意義に気付くことができました。人生をより良く生きるとは等哲学的な問題意識も持ち始めました。学ぶ喜びを教えていただいた物理の先生に感謝しています。

先日当時担任していただいた英語の先生から悲しい話を聞きました。その物理の先生は数年前自死されたそうです。非常に残念で悲しいことですが、先生の教えは私の中にしっかりと生きています。心よりご冥福をお祈りしたいと思います。

高校2年の時、リクルート事件がありました。未公開株をめぐり利益を得る政治家の姿が報道されていました。金権政治が当たり前と考える政治家の姿に、強い憤りを持ちました。リーダーが権力を維持するために私服を肥やす現実に、情けない気持ちで一杯になりました。

これが政治家を志す「素志」になりました。

政治家になった頃、先輩議員に「上田君は、清濁合わせ飲まないといけないよ」と言われたことがあります。合わせ飲む気はありませんでした。また、ある古老の政治家が景気対策を主張する背後に自分の関連会社の利益がある現実を見てうんざりしました。また、天下国家を論じるいわゆる保守政治家の中には、お金は権力闘争の手段と割り切る人もいます。天下を良くするのだから、お金の問題など小さいと。私は、天下を論じることが金権政治の免罪符になってはいけないと考えています。

清濁を合わせ飲まない政治家を「政治家らしくない」と考える有権者に出会うこともありますが、私が政治家らしいと考えるのは山岡鉄舟のような人物です。

江戸城無血開城の立役者である山岡鉄舟を評した西郷隆盛の言葉を紹介します。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」

西郷隆盛

現代を生きる私ごときが山岡鉄舟を引き合いに出すこと自体憚られるところではありますが、西郷隆盛が評した山岡鉄舟という人物の器に近づけるよう精進したいと思っています。

学生期 京都政経塾 大学中退

大学時代 政治との出会い

大学は龍谷大学法学部政治学科へ入学しまし所属は国際政治でした。大学での政治学の授業は退屈でした。退屈の理由は、本の中で分析される世界だったからです。確かに、権力についての哲学的考察や有権者の定量的な行動分析などは必要な学びと理解はできましたが、現場感覚を伴った学びでなかったために強い興味を持つことができませんでした。

そんな時、友人の紹介で選挙に関わることになりました。第40回衆議院選挙です。小沢一郎が自民党を割って新生党を立ち上げて戦った時の選挙です。ご縁があり事務所に入ってお手伝いをした候補者は、京都府議会議員を辞職して新生党から衆議院に初挑戦した人でした。ポスター貼りから、挨拶回り、個人演説会の準備から街頭演説会の調整など現場で選挙というものを経験することになりました。結果その人は残念ながら次点で落選しましたが、現場から見える政治の世界は大学で学ぶ本の中の政治の世界とは違いました。血の通った人間が繰り広げる政治という現実に魅力を感じると同時に、権力に群がる人々の欲望の強さに恐ろしさを感じました。

「中途半端な気持ちで政治の世界に入ったら利に絡めとられる」

そう確信することになったのが、選挙という現実を経験して得た確信でした。

政治という現場 京都で選挙

新聞配達と一人暮らし

大学時代に現実の政治の世界に入れたことは、その後の人生に大きな影響を与えました。ただ、もう一つどうしても実行したいことがありました。一人暮らしです。お金がないので部屋を借りるという方法は取れません。そこで一人暮らしができて、かつ学費も一定払ってもらえる「新聞奨学生」になることを決めました。

大学近くの朝日新聞の配達所に所属になりました。壁に穴が空いている古い文化住宅に住み込むことになりました。1K風呂無し。普段は銭湯に通い、銭湯が休みの時は水を浴びました。休刊日を除いて、365日朝夕刊を配達していました。配達区域は伏見稲荷周辺でした。稲荷山の山奥の一軒家や当時は全く知らなかったが伊藤若冲ゆかりの石峯寺にも毎日配達していました。

新聞配達後、朝6時頃から同じ境遇の奨学生仲間と新聞を読みながら政治経済から文化の話を喧々諤々議論しました。学部の違う学生との議論は非常に勉強になりました。新聞を読み、本を読み、語り合う時間を過ごしたことはかけがえのない学びとなりました。この時出会った仲間は、一人は警察官になり、一人は新聞記者になっています。

新聞奨学生

京都政経塾から大学中退へ

平成7年これも縁あって松下政経塾京都政経塾に入塾しました。現在、京都政経塾はありません。当時松下政経塾の「地域から日本を変える」運動の一環として京都に地方塾を開いていたのです。

現実の政治を垣間見ていたので、覚悟のないまま政治の世界に入ると利に絡めとられると確信していました。また自己顕示欲を満たすために政治の世界に入れば、つまらない政治家になることも想像していました。政治の世界で、覚悟を持って世のため人のために生きてく指針のようなものを学べると期待して入塾しました。

京都政経塾入塾式

松下政経塾京都政経塾では、20代から60代の学生、社会人が学び合う場所でした。松下政経塾から講師がこられ、実際に取り組まれていることをお聞きし議論をしました。社会の様々な現場で世の中のために取り組まれている人たちと議論できたことは、貴重な体験で意義ある学びとなりました。

松下政経塾京都政経塾で学んでいた時、自分に言い聞かせていた言葉があります。

それは「日常へ帰れ」(小林よしのり著 「脱正義論」)という言葉でした。

現場も知らない一学生が世の中を饒舌に語り評論家もどきになってしまうことを恐れていました。自分にとっての現場は何か、そして何をなすために生まれてきたのかを考え続けていた時期でした。何をなすべきか分からないままバイトに明け暮れていました。

京都政経塾での学びの中には、茅ヶ崎の松下政経塾での研修もありました。この時松下幸之助という人物について初めて向き合うことができました。しかし、当時の自分には松下幸之助が示した理想は「きれい事」であり現実の世の中では実践が難しいと決め付けていました。今となっては、自分の器が小さいだけだと分かるのですが、当時の自分にとって幸之助はあまりにも大きすぎたため消化することができませんでした。実はこの12年後、林英臣政経塾という場所で、松下政経塾1期生の林英臣先生から松下幸之助と再び向き合うことになりました。また令和の現在、PHP研究所の専務として松下幸之助の研究をされていた佐藤悌二郎先生からも松下幸之助について学ぶ機会をいただいております。激動の時代を経営者として生きてこられた幸之助から生まれた哲学は本当に奥深く、自分を問われる鏡となっています。

当時、政経塾では松下政経塾の塾是塾訓ならびに五誓を毎回唱和していました。その五誓の一つが、今でも大好きな言葉です。

 一 万事研修の事 

見るもの聞くこと全てに学び、一切の体験を研修と受け止めて勤しむところに真の向上がある。心してみれば、万物ことごとく我が師となる。

松下政経塾 五誓

このような学びを受けていた頃、大学を卒業するために単位を取るということに違和感を持ち始めました。みんなが行くから大学へ行きみんながするから就活するという、世間が引いたレールの上で生きることに疑問を持ったのです。そして、自分の意思で人生を歩む意味も込めて「大学中退」という選択をしました。本当に親不孝ものだと思います。ただ、こういう決断をすることが自分というものを明確にするために必要な決断だったと考えています。

政治家期

1期目〜森林ボランティア、ゴッホの絵

京都で政治家の事務所のお手伝いをしていた時、一緒に働いてい秘書の方がひょんなことから茨木市の衆議院議員候補の秘書になりました。期せずして自分の生まれ育った街茨木市で政治とのご縁が生まれました。このご縁がきっかけとなって平成13年の茨木市議会議員選挙に挑戦することになりました。多くのご支援のおかげで初当選することができました。当時29歳、最年少の茨木市議会議員として政治家としての人生を歩み始めました。

1期目の選挙

高校時代のところにも記載しましたが、リクルート事件が私の政治への「素志」です。1期目の4年間で提案してきたテーマは行政情報の公開を推進することでした。市民の信頼を得ながら、公正で公平な政治を目指すためには市政情報を気軽に市民が知ることが大事になります。だからこそ、市のホームページ充実や行政事務事業評価の公開などを提案しました。

しかし、他の議員とは違って自分だからこそ取り組むことができるテーマは何だろうか、自分の人生と照らし合わせて役割と意義を感じるライフワークとなるテーマは何だろうかと考え続けていました。そんな中、1期目に出会ったテーマが「芸術」であり、「森林」という分野だったのです。

まずは「芸術」との出会いについてです。

もともと典型的なスポーツ少年でした。だから芸術には全く興味もなく美術館へは妻について行くだけです。当然作品も見ずに、真っ先に会場を出て待っているのが常でした。そんな折、人生で初めて絵というものに衝撃を受けました。2002年兵庫県立美術館で開催されたゴッホ展です。

いつもの様に展示場を通り過ぎ出口に向かおうと歩いていた時、最後の部屋にその作品はあったと思います。一枚の絵をチラッと見ました。えっ、と思いました。少ししっかり見てみました。あれっ、と思いました。その時、出口へ向かう足は一枚の絵の前で止められていたのです。絵から生身の人間の生き様が伝わってきた気がしました。こんな感覚を与えられる絵って何なんだと思い始めたこの時から、芸術を学ぶことが始まりました。印象派から始まり、西欧美術、日本美術、そして馴染みにくかった現代美術まで興味を持って向き合うことになりました。知れば知るほど、芸術の奥深さに気づくことになりどんどんのめり込むことになりました。芸術から人間を学ぶことができる、また芸術は人生を豊かにする可能性を秘めている。人類にとっての芸術の価値を確信しました。これが芸術をライフワークに活動している自分の原点です。

ゴッホとの出会いについてはアートローグさんに取材されて記事になっております。→http://www.artlogue.org/node/4119

次に「森林」との出会いについてです。

森林との出会いは2003年です。CW・ニコルさんのNHK番組「森から未来をみる〜黒姫高原で考えたこと」を見たことがきっかけでした。そもそも茨木市の北半分は山間部であり森が広がっています。森が身近に体感できる街で生まれたことも影響していると思います。国土の約7割を占める「森林」から、環境のこと生態系のこと経済のこと政治のこと治水のことなど様々なことを考え始めました。実際にCW・ニコルさんが作り始めた長野黒姫高原のアファンの森にも行きました。自分の街の森林をフィールドに活動したいと考え、2003年森林ボランティアリーダー研修を終了しました。また、当時出来たばかりの「森里海連環学」という学問にも興味を持ち、京都大学の芦生研究林での研修などにも参加して大学研究者や市民ボランティアの方々と森林や環境について議論を深めました。森林の現場に身を置き、そこから問題を体感することを心がけてきました。令和2年から茨木市での森林ボランティアも再開しました。もう一度現場にいる時間を大切にして課題解決のヒントを得るべく取り組んでまいります。

CWニコルさん

我々は個人としても、文化的、政治的存在としても、循環するサイクルの一部である。そのことを認識し、自然の循環とこの惑星を我々といっしょに分かちあう。あらゆるほかの生きものや要素への愛情と関心を抱きながら、自分の役割を引き受け、もっともっと真剣にかつ聡明に計画を立案しなければならない。もしそうしなければ、われわれは自身の無知と傲慢と強欲と愚かさに、われわれは結局自滅してしまうだろう。

私は信じている。日本にはこの国を世界のモデル、模範としうる、美しく能力がある活気にみちた生態系に変えるだけの科学技術と能力が備わっている。日本には科学の力も、技術も能力もある。もう一度、この生態系を取り戻して美しい日本を再生し、世界のお手本になろうではないか。私は自分に残された短い時間を使って、最善を尽くそうと思う。

さて、皆さんはどうなさいますか。

C・Wニコル著 「森から未来をみる 黒姫高原で考えたこと」
森里海連環学

20世紀後半における科学技術の進展は目を見張るばかりであり、個別の問題が生じるごとにそれを防ぐ技術を生み出して、その場をしのぎ、この繰り返しのなかで表面的には私たちの生活は大変“豊か”になったと思われている。しかし、一方ではこれらの個別の科学技術の進歩は、ある生態系内部ならびに生態系間のさまざまなつながりを分断し、つながりとして役割を果たす自然のもつ多様な機能を消滅させ、地球生命体に深刻な亀裂を生み出してきといわざるを得ない。

環境問題、とりわけわが国の環境問題の本質的な解決には、“もぐらたたき”のような個別技術の開発による対処ではなく、自然と自然、人と自然そして人と人とのつながりの再生が最も重要であり、ここにこそ21世紀の新しい総合学問領域として「森里海連環学」創生の意義が存在する。

科学の本流は今後も個別専門分化化するであろう。専門分化の逆流としての統合化には大きなエネルギーを伴う。しかし、20世紀の科学技術の反省は、21世紀の地球的課題の解消に森里海連環学のような統合学問領域の創生を求めている。

京都大学フィールド科学教育研究センター 山下洋監修 「森里海連環学 森から海までの統合的管理を目指して」

落選〜建築現場との再会

2期目の選挙は次点で落選しました。選挙の当落は天国と地獄ほど落差があることを体感しました。

落選の4年間は建築、土木、造園の現場で汗を流しました。この頃初めてものづくりの面白さに気づき、職人の凄さを実感しました。自分も現場の仕事を少しでも身につけたいと思い、移動式クレーン、車両系建設機械(バックホウ)、玉掛け講習を修了しました。また、一級造園施工管理技士の資格も取得しました。

建設現場で一生懸命働く中でやっと現場から社会が見えてきました。スクラップアンドビルドが繰り返される建築のあり方に違和感を持ちました。そこには住宅を大切に住み継ぐという価値が忘れられているように思いました。ストックとしての住宅の価値を見直す必要があると思います。家を耐久消費財と考え、衣服を着替える様に古いものを捨て新しいものをつくる、建てては壊し建てては壊す短期的経済利益を最大化することだけが優先されている社会から持続可能な社会へと舵を切る必要があります。

住宅はそこで暮らす人の拠点となり街の歴史を紡いでいます。また、地域にとっては風景の一部となるものであり文化的側面も重要であります。住宅や建築が持つ多様な価値を考えた都市政策を考えなければなりません。

建設現場ではグローバル経済の流れの中で国産材より輸入材が多く使われていました。結果、林業が荒廃していきます。それに伴って山林も衰退して行きます。国産材の利用機会を増やすなどしてもう少しバランスを取れないものかと考えてしまいます。グローバル経済と地域経済のバランスを考えて持続可能で内需と外需がバランスの取れた経済循環へシフトしていく必要があります。地球環境を見据えた時、より近い地域での経済循環を増やし、地域の自然生態系を尊重できる経済システムへシフトして行くことが大事だと思います。

現場〜採石敷き均し

2期目〜地域から芸術をテーマとすること

2期目は芸術政策を形にするべく取り組みました。元茨木川緑地彫刻事業をアップグレードしてヤノベケンジさんのサンチャイルドが阪急南茨木駅前に設置されることになりました。東日本大震災から1年後の2012年3月11日でした。茨木市は現代美術の歴史を紡いできました。大阪で唯一現代美術展を40年以上継続しているまちです。この歴史的な文脈を生かして、これからも現代美術を生かしたまちづくりを進めるべく活動して参ります。

ようこそサン・チャイルド祭り

3期目〜100条委員会 林英臣政経塾

3期目には100条委員会の委員長を仰せつかりました。当時の市長が親族の税金滞納について差し押さえを免れる発言をしたことを調査する会でした。調査結果を取りまとめ、議会としての役割を担うことになりました。そもそも、政治とカネに関わることで議会が労力を使わなければならない現実に情けなくなりました。

また、38歳の時入塾した林英臣政経塾では、政治家としての志を磨くことになりました。全国から集まった政治家同士真剣勝負で語り合い、政治家としての天命を知るために研鑽いたしました。座学は、文明論、日本思想、中国思想、松下幸之助思想などを林英臣先生から学びました。

枚岡神社にて同志と禊修行

また林先生は「国是担当地方議員構想」を掲げられていました。全国の志を持った地方議員が地方から日本改新のために集い行動するというものです。幕末の志士がそうであったように、変革期に世の中を変える力を持ちうるのは現場から自由に動ける地方議員だという考えに共感しました。北は青森から南は沖縄まで、延べで100名を超える政治家と学び合いました。2年の学びの後、林塾の同志と共に活動する者は「塾士」となります。私も塾士に認定いただき、現在60名を超える塾士と研鑽しておいります。国会議員・市長・府県議・市町村議の同志たちが、それぞれの現場で日本改新のために活動しています。

林英臣政経塾のホームページ

林英臣政経塾

4期目〜大阪北部地震 新型コロナ

4期目の時には大阪北部地震が起こりました。2018年6月18日7時58分、自宅マンションでマグニチュード6.1、震度6弱の強い揺れを感じました。食器棚から食器が飛び出し、朝食はテーブルから振り落とされました。裸足でいたために飛び散ったガラスの破片でで足を切っていました。地震の揺れが激しく興奮していたために、血が流れていることに気がつきませんでした。当日10 時から幹事長会が予定されていましたが急遽時間が変更され、昼から集まることになりました。地震が収まってすぐの幹事長会では、それぞれの地元の被災状況が伝えられました。

地震後、多くの住宅の屋根がブルーシートに覆われました。自分の住んでいるマンションも大きな被害が出ていました。議会では避難所運営や生活再建に向けた議論が続けられました。

沢山の被害が出ているにもかかわらず、職人が不足しているためブルーシートに覆われた住宅が減少するのに時間がかかりました。1年以上ブルーシートを掛けたままの家がざらにありました。そんな中「屋根修理は1000万」とか「耐震補強も何百万もかかる」とふっかけてくる業者がいるという話を聞くことがありました。

大雑把な言い値がまかり通る建築の世界は、困っている人にとって冷たいものに見えました。生活の拠点となる家を大切に守りたいと思っている人がいる一方、きめ細やかな改修レベルや金額提示がなされずにふっかけてくる事業者の話を耳にして不安を抱えている市民の姿を目の当たりにしました。

なぜ、耐震工事はそれほど高価でわかりにくいのか。商品を購入するように安いものから高いものまで様々なレベルの耐震方法が示されており、それを選ぶことができる状況ではないのか。業者側の言い値だけが蔓延る現実を垣間見て建築に無力感を持ち残念に思えてなりませんでした。

後で分かったことなのですが、在来木造の耐震技術がまだ完成されていないようでした。生物材である木材は鉄骨やコンクリートと違い、工学的な耐震計算に向かない面があるそうです。この分野の学問が、人々の生活を安心するもになるまで進歩し制度化されなければならないと実感いたしました。

リーゾナブルな耐震工事もあるはずと考えていた頃、高知県の取り組みを新聞報道で発見しました。茨木市の担当課からこの耐震方法を大阪府に提案していただき、大阪でも採用されることになりました。耐震についての取り組みが人々にとって分かりやすく、金額に応じて様々な選択肢がある状況を作る必要があります。

2020年は新型コロナが生活が激変させています。議会も三蜜を避けた非常事態の運営をしていいます。生活支援を充実する議論も進めながら、アフターコロナに向けた都市のあり方についても考えているところです。

令和2年4月「次なる茨木」をつくる福岡市長と同志の議員たちと

これからも私は、地球環境を視野に入れた都市のあり方を考え続けて参ります。

都市に芸術をつなげ、自然と調和した持続可能な森林環境都市“茨木市”を実現するために行動してまいります。

真に豊かで幸せを感じられる茨木市を実現し、後世に引き渡すために精進して参ります。(令和2年初夏)